鍛冶屋日記

月別: 2019年4月

さぁ、いろいろあった3月から日常へ!って思っていたらもうすでにゴールデンウィーク。

 

高校の同級生集めて運動会したり、年度末の異動で町を離れたあの子の送別会をしたり。

20人集まって宴会していた送別会がいつのまにか5人だけの麻雀大会になっていたり。朝4時半まで。異動のあの子は最後まで観戦して行ってくれました。今日の仕事は眠かった。

いつものごとくハードスケジュールで大型連休を過ごしています。今日まで仕事したけど。

 

大型連休らしく県外からのお客様があったのでご紹介。

大分県からのお客様は道の駅『くらうど』さんでうちの商品を見てくれて興味を持ってくれて三世代でわざわざはさみ屋までご来店。

「何に使おう。」って言いながら小さなナイフを買ってくれました。

 

もう一組、なんと福島県から植木屋さんご来店。お車で。遠いよね。

昨年ホームページで鋏を買ってくれてた植木屋さん。

奥さまのご実家が香川県でそこからわざわざはさみ屋まで足を伸ばしてくれたようです。奥さまを説き伏せて。

また別の形の植木鋏と「奥さまに」ってTOSA no DAICHI(ストライプの包丁)をお買い上げいただきました。

また高知への誘客にちょっと貢献。

 

このまま連休も工場にこもって働いてたら県外からのお客様がどんどん来て売り上げも爆発するんじゃないかと思いますが、予定を入れずにはいられないはさみ屋は今年も佐賀県へ伺います。

 

もう毎年恒例になった佐賀県有田の陶器市。

5月3日(金)4日(土)の2日間

たぶん朝10時〜午後4時くらいまで

陶山神社の境内にて。販売と包丁研ぎ。sukimaに並ぶ高知の産品もしっかり持って行きます。

 

ちょっと調べたら2014年から連続出場なのでもう6回目。

フェリーの予約もフェリーの中での振る舞いもだいぶ慣れました。

 

という訳ですので、九州佐賀県近辺のみなさま、周辺は大変渋滞致しますが、ご都合よろしければ有田の陶山神社まで、切れ味の鈍ったお家の包丁など携えて遊びに来てください。

お待ちしております。

 

 

またまた前回の続きです。

 

高知に戻った日は葬儀場で父と母と大阪から夜中に車を飛ばして帰ってきた妹と一緒に4人で布団を並べて眠りました。懐かしい家族4人だけ。何十年ぶりやろ。

朝は5時頃目覚めてこっそり1人で外の喫煙所にタバコを吸いに行ってこっそり帰ったら妹が起きたので

「すごいろ。俺が誰より早く一番に起きる日が来た。」って言ったら

「そんな訳ないやん。私ももう起きちょったし、じーちゃんはもう2時間くらい前から起きちゅうき。」

あー、そうながや。

 

 

それからお通夜を終えて、ごく近い家族と親戚で晩ごはんを食べました。ビールを飲みました。

息子たちや姪っ子甥っ子がいてばーちゃんが眠ってる部屋で賑やかに夜が更けていってた時。

父が「お、こんなのがあるぞ。」って一枚の紙を出してきました。

それは母が週に2回通ってたデイサービスの連絡先が書かれた紙でした。名刺のでっかいやつ。ちょっと固めの紙質のやつ。

母がなくなったのでデイサービスの施設にも連絡せんといかんと思った父がお通夜会場に持ってきていた紙。

その裏にこれ。

ばーちゃんの字です。

手に力が入らなくなって字を書くのも億劫がっていた母の字です。

12/8  四国大学 入学祈願 りんちゃん」

 

そういえばいろいろ忘れてしまう母に言ったなぁ。

「明日凜が入学試験やって。合格するように祈りよっちゃって。」

「そうかね。忘れんように書いちょかんと。」

そのメモがお通夜の夜に何の気なしに登場しました。父は本当に裏のメモには気づかず携えてきたようで。

 

そのメモを前に凜は号泣。

12/8ってほんとに試験の前日やん。」

「病院でもみんな泣きゆうき俺は泣かれんと思って泣かんとここまできたのに。」

「ばばちゃん、ずるいわ。」

そりゃ19の男子も泣きます。

 

やば、書きながら泣きそうや。

 

 

ばーちゃんの孫を思う気持ちがそこにありました。

それをお通夜の夜にじーちゃんが孫に見せました。

ひとしきり食べて飲んで話して笑ってのあとに。

 

見事です。

このばーちゃんの気持ちを忘れんように大学生活を送らんとね。

 

 

お母さん、ゆっくりしてますか。

お母さんが倒れた姿も見てなくて、病院に駆けつけることもしてなくて、あなたがいなくなったっていう実感が全然ないよ。

毎日仕事しに実家に行っても普通におるみたいな感覚。

遺影はちょっと若い頃の元気な笑顔の写真にしたので、なんか「お母さん元気になったやん。良かったね。」みたいな気持ちで毎日会ってます。

 

 

「お兄ちゃん(母は僕のことをこう呼びます)はこの仕事に就いて良かったと思う?この仕事楽しい?」

元気な頃も記憶があやふやになって元気をなくしてからもよく母から聞かれた質問です。

息子が鍛冶屋の仕事に入る。

真面目にコツコツやり続けてきた父の仕事に、真面目にコツコツとはほど遠い人生を歩んできた息子が入る。

さぞかし心配だったことでしょう。

聞かれる度に

「めちゃくちゃ良かったよ!」

「こんないい仕事ないで。自分が思うようにやれて、やりがいがあって、お客さんに喜んでもらえて。」

「家業ってものがあって本当に良かったと思う。お父さんのおかげやね。」

 

毎回そう答えてたけれど、これから先もずっとそう答えられるように頑張らんとね。

 

 

ペコちゃんに認めてもらえるようにこれからもしっかり生きたいと思います。

 

 

 

前回の続きです。

母がなぜ僕が東京にいる日を選んでいっちゃったのか。

僕は6年前に離婚をしています。別居の期間を入れると10年になります。だから元奥さんがいます。そこに21歳と19歳の息子がいます。

離れてしまった父としてはなかなか仲良くやってる方だと思います。元奥さんのおかげ。

 

それから今一緒にいる彼女がいます。彼女には中学2年生の娘がいます。3人で一緒に暮らしてます。

 

父と母には紹介しました。2年と少し前に。

息子たちに会わせてはいませんでした。彼女と娘と暮らしてることは昨年秋に初めて話したけど。

 

こういう状況があって、315日を迎えます。

 

朝一飛行機で東京に行って1日自由が丘で仕事して帰りにコーヒーショップでビールを飲んで晩飯にお持ち帰りの肉飯を買ってホテルでまた缶ビール飲みながら肉飯食べてテレビ見てたら親父から電話。2240分頃。

「今すぐ帰って来てくれ!おかあが!」

親父はパニック。何言ってるかわからんくらい。

お母さんになにかあったこと、救急車で病院に向かっていることはなんとかわかったので電話を切ってから彼女に連絡。

「何があったかよくわからんけど〇〇病院に向かいゆうみたいやき行っちゃって!」だけ伝えて。

「わかった。」って返事もらって。

それから大阪の妹に電話したり他の親戚に連絡取ったり。東京のホテルで。

それから1時間も経たないうちに彼女から「お母さん今なくなった。」って連絡もらって。

 

次男凜にも「病院行っちゃって。」って連絡をして長男涼太は神奈川にいるので「ばーちゃんなくなった。おまえ明日朝一で一緒に帰れる?」って連絡して2人分の飛行機チケット取って。東京のホテルで一人で。

 

その間、僕の彼女は落ち込み嘆く父のそばにいてくれて、警察の現場検証にも立ち会ってくれて。一晩中あちこち駆け回ってくれてあれこれ全部やってくれて。

 

翌朝高知に戻って眠ってる母と対面した時には、僕の彼女は親戚一同に紹介済み。

「ほんと、彼女はよくやってくれたよ。」って親戚のおばちゃんに言われる。

凜ともご対面済み。

なんなら元奥さんともご対面済み。

自分で紹介したのは一緒に帰った涼太だけ。

 

 

お母さんが「あんたもういいかげんにちゃんとしなさいよー。」ってみんなに彼女を紹介していってくれました。

 

僕が近くにいなかったからこうなった。

その時両親に一番近くで頼れる人は彼女でした。

だからペコちゃんはわざわざ僕がおらん日を選んでいったがよね。

(親父にとってはそんな時に息子がいないってのははだいぶ酷な仕打ちやけど、「お父さんは大丈夫!」みたいなとこがお母さんにはある。)

 

息子たちにどう紹介しよう、どんなタイミングで会わせたらいいがやろ。そんなことぼんやり考えてなんとなく逃げてたところです。

バシッとやられました。

 

見事でしょ。ペコちゃん。

つじつま合わせにしたって敵わない。

 

 

ペコちゃんのすごいとこもうひとつあるのでもう一話だけ母について書きます。

 

 

 

お母さんがなくなっちゃった。

突然に。315日。75歳。

会社勤めしていた頃のニックネームはペコちゃん。18歳で入社して退職して60歳になっても70歳になっても「ペコちゃん」。つまりは笑うひと。

19歳まで一緒に暮らして、鍛冶屋になった25歳からは毎日仕事場で会っていたペコちゃんが突然いなくなっちゃいました。

前回告知した東京出張に出かけた日でした。

もうすぐ1ヶ月になるね。早いなぁ。

母は寝込んでいたわけでもなく体調を崩していたわけでもなく、その日もいつも通り金曜日のデイサービスに行って晩ごはんも父と食べて2人でテレビを見て、父が「お風呂入りや」って声をかけてお風呂に入るまでいつも通りの母だったそうです。

前日だって仕事終わって普通に「明日から仕事で東京行って来る。お土産買って来るきね。」って言って普通に「おやすみ!」って帰ったのに。

想像してないもんね。

そんなことならもっといっぱい話して帰ったのに。

 

ただ、ここ数年母はパーキンソン病と認知症で日々のことを忘れていってしまう自分を嘆いていて、僕らにとってはそこにいてくれるだけで良かったのだけれど、少しづつ出来ないことが増えていくのをしんどく思ってました。

「ごめん、ごめん。」って謝ってばっかり。

だから、やっぱりちょっと疲れてしまって、寝込んで心配をかけることもなく、シュシュっといってしまったのだと思います。

数年前までお友達とおしゃべりするためにはいつでもどこまででもフットワーク軽く出かけてお茶するのが大好きだった母が、周りの友達から「ペコちゃんペコちゃん」って可愛がってもらった笑顔がトレードマークの母が、友達に会うのも億劫がるようになって家の用事もだんだん出来なくなっていって「お父さんに手間と心配かけるのにちょっと疲れた。いっちょくね。」って感じだったのだと勝手に解釈しました。

2人で出かけるのも2人で過ごすことも大好きな仲良しの父と母なので、父が受け入れるのは簡単じゃないとは思うけど、お通夜お葬式を通じて母と仲良くしてくださったみなさまのお顔やお言葉をいただいてやっぱりこれは「お父さんゆっくりしてね。」という母の優しさなんだと受け止めてしっかり見送りました。

友達いっぱい来てくれちょったよ。

認知症でだんだん出来ないことが増えてって、そのおかげで(母の世話をするために)いつのまにか父はごはんも作れるようになったし、お風呂を沸かす予約設定も出来るし、ゴミの日も把握しちゅうし、お金の管理も全部自分でやるようになってます。

ほんのこの前まで家のことは母に任せっきりで仕事しかしてなかった父なのに。

そういう風に仕向けていったんだなぁと。父が全部出来るようになったのを、「ひとりでも困ることないね。さとるのお昼ごはんも作れるようになったもんね。」ってのを見届けていっちゃったんだなぁと。

 

見事だと思います。

 

お葬式の最後、お棺の中の母に父が声をかけました。

「ちょっと待ちよれよ。」

ずっと2人でいて、最後はずっと面倒見てきて、突然いなくなったら父はさびしいだろうなぁ、そればっかり考えていたけれど、この言葉にはなんか希望がありました。

永遠の別れじゃない感じ。

またいつか会える感じ。

「ちょっと待ちよれよ。」

いい言葉でした。

 

 

それにしても、わざわざ息子が東京出張の日にせんでも。毎日毎日実家に仕事しに行って顔を合わせてお昼ごはんを一緒に食べゆう息子が遠く遠くにおる日を、いくらすぐ帰りたくても翌朝飛行機飛ぶまで帰れん日を選んでいっちゃった。

まぁ、それにもペコちゃんにはきちんと理由があるらしいので次はそれを書きます。

 

 

 

 

2019年4月
« 3月   5月 »
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930  
最近の記事 最新コメント